ー山脇さんが大切にしてきた信念とは。
今年の7月に45周年を迎えたパンのピノキオを訪ねました。今回お話しを聞かせて頂くのは代表の山脇 寿且(やまわき としかつ)氏です。中村で街のパン屋さんと言えば、パンのピノキオ。小学校の頃から筆者もずっと通った思い出のあるお店です。山脇さんは満州生まれの76歳、終戦を迎えて地元である土佐清水に命からがら戻ってきたそうです。何もないところからパン屋を始めて45年。山脇さんが大切にしてこられたコトをじっくりとお聞きしていきたいと思います。(※2017年9月に掲載した記事です。)
▼こだわりの自家製パンを両手に抱えて笑顔の山脇氏。
昭和15年、満州で生まれ終戦とともに帰国の途へ
―山脇さんのお父さんは満州にいらっしゃったそうですね。
「開拓団で親父が先に満州に渡りましてね、当時は下田の中島海運いうところへ勤めよったがです。中島さんが満州で材木の事業をするいうことで、責任者で行って、うちのお袋を立石から呼んでもらって僕が生まれました。終戦後に僕は6歳で帰って来て、おやじは終戦後にソ連に抑留されて、昭和20年に帰って来たんです。」
―お父さんがソ連に抑留されて、お母さんと山脇さんが帰って来たのですか。
「おばあちゃんも一緒でした、僕を連れて逃げて帰りようことを憶えてますけどね。高粱(コウリャン)の沼を着の身着のままで僕を2人が交代で、背負うたと思います。女じゃ捕まったら、どうなるか分からんけん頭を剃って、逃げ帰ってきたいうことです。家と財産もあったようですけんど、全部捨ててもんてきました。」
―もともとのご出身はどちらですか
「土佐清水市の布です。中国にもう一人妹がおったけんど麻疹(はしか)で亡くなってね。僕一人を連れて帰ったがです。当時の状況では弟が2人とか3人おったら全員連れて帰れんけんね、つらいことですよね。」
終戦の頃は、食べれりゃ上等
―終戦の時は、どんな状況でしたか。
「食べるもので言うと、米は少なかったね。芋食べたり、大根とか芋飯やけん。米はあんまり入ってないご飯よね。たまに砂糖が配給で買えたらね、嬉しい。砂糖をご飯にかけて食べたら嬉しかったけんど、おやつも無いし、漬物かじっておにぎりを食べるのが一番のおやつ。それが食べれりゃ上等です。」
―パン屋さんを始めたキッカケを教えて下さい。
「親父が土佐清水にもんて来てからは炭の仲買をしよりまして、炭焼きをしながら、中村へ時々来よったがですけどね。パンも3円か4円やったと思いますが、親父がこれからはパンがえい言うて、僕もそうじゃ思うてね。最初は清水の橋本製菓さんというパン屋がありまして、そこへ3年半おって、その後は松風堂さんへ11年勤めました。当時はパンの部門がありまして、社長が『もうパンは辞めるけん、お前やるか。』と譲ってくれたおかげで今の自分があります。」
―お店はどうされたんですか。
「最初はまだ何にもありませんので。工場も貸りて、得意先に協力して貰いました。そこで2年借りてやりよって、30坪位の土地が見つかりまして、おばあちゃんとお袋が300万円出してくれて、後のお金は借入れして始めたのがこのお店の最初です。」
”自家製あん”にこだわり続ける、あんぱんの味
―ピノキオさんでオススメのパンを教えて下さい。
「自分達で考えた昔からのパンは”チョコチップパン”とか”ピノキオパン”とか”あんぱん”ですね。あんこも自家製で炊いておりますが、パン屋であんこ炊いているとこは今ではウチだけやと思いますね。皆さん、美味しいと言うてくれます。」
―パン屋さんの景気はいかがですか。
「10年ぐらい前までは良かった思うたけんど、今は儲かりませんので、いきません。特に路面店が無くなったもんね、今は商業施設のテナントかコンビニですから。コンビニ出来たら、パン屋が隣に出来た以上にこっちは大変ですね。路面のパン屋は30年前には5~6軒はありました。」
―コンビニがパンを売り始めたのが大きいですか。
「みんな量販店行くし、コンビニが一番大きいね。人口はどんどん減って年間500人近く減っていきよるもんね、若い者はおらんなるし。こないだ市長さんと話したがやけんど、『働くとこだけ作ってください』とお願いしました。」
―そんな中でも、幡多農さんとコラボして新商品を開発しているそうですね。
「新聞見て、前からコラボをやりたいと思いよりました。うちの家系はみんな幡多農出身で、僕は中卒やけど幡多農さんに僕が声掛けました。たしか3年ぐらい前ですね、ハンバーガーのパテを先生が指導して生徒が作るという事で、放課後にしか時間がないから木曜限定でコラボバーガーを40個は必ず作ります。毎回売れますね。」
美味いと言ってもらえて、なんぼの世界
―僕達が小学校の頃はパン屋さんが何軒もありましたよね。今まで生き残って来れた秘訣は何だと思いますか。
「味だと思います。お客さんが食べてくれて美味しい、それだけは考えておりますので。美味い言うてもらわんとね、こんなに競争の激しい時代ですけん。美味しくないと生き残れんいうことは分かっておりますので、それだけ気をつけて。衛生面は当たり前のことやけん。」
―45周年を迎えて、これからの展望をお聞かせ下さい。
「ウチは子供は3名、女ばっかりでみんな嫁さんに出して、孫がお店を継ぐことになりました。今年3月に高校を卒業した大阪の男の子ですが、京都の志津屋(しずや)いうパン屋に就職したそうです。京都では一番大きいと思いますが、18店舗で営業しよる店らしいです。こんまい時からパン屋する言うてましたが、大きくなったら変わると思うたけど、自分で決めたそうです。何年か修行して帰ったらすぐに社長にして、交代します。嬉しいことですね。」
―最後に、経営者として大切にしてこられたコトは何ですか。
「正直にやってきたと思うてます。田舎では都会みたいな行列のできる店はないけんど、話題のある店作りということを心掛けないと行き残れんと思います。幡多農さんとのコラボはね、大事にしていってこれからも続けて行きたいと思います。将来的には孫に企画させて、孫の思うたようにやらせますのでよろしくお願いします。」
問い合わせ
パンのピノキオ
高知県四万十市中村一条通4-3-30
営業時間 6:30~19:00
ビュッフェ 7:00~16:00
定休日 第4日曜日
TEL 0880-34-4188
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※この記事は2017年10月発刊の「はたも~らVol.47」にも掲載されました。是非ご覧ください。