―花嫁衣裳おぐら40年のあゆみ、そして次の世代へ。
”美しい花嫁をつくる”というテーマのもと、昭和53年に花嫁衣裳おぐらをオープンさせた小椋茂昭さん。40周年を迎えた今年に勇退され、苦楽を共にしたスタッフが新たなブライダルショップを同じ場所にオープンしました。”地域のみなさんから必要とされるお店に”をモットーにして取り組んでこられたそうです。小椋さんがずっと大切にしてきた思いを今夜はじっくりと聞かせて頂きます。
▼小椋 茂昭さん(78) 昭和15年4月4日生まれ
―ヒトが幸せになるお手伝いをしたい
―小椋さんが花嫁衣装おぐらを始めるまでを聞かせて下さい。
「私が西土佐の奥屋内で8人兄弟の4番目で生まれました。両親と炭焼きしながら中村に出てきて、職をいくつか変わりましたけど、”月の友”という布団屋のフランチャイズに入って25歳から11年勤めたね。そこを辞めてから高知にある”花嫁衣裳 あおい”に店長代理で就職してね。そこを半年で閉める事になって、何しようかと考えて。布団屋も花嫁衣装も、人が幸せになるところに魅力を感じて花嫁衣裳の仕事をやってみようと始めました。」
―そこからはどうやって開店までこぎつけたんですか。
「僕は民主商工会という組織を作った時のメンバーやったがです。民商の新聞読みよったら、西陣織の記事を見つけて、京都の民商事務所に夜行列車に飛び乗って行った。そしたら事務局長が西陣織の本を出してくれて、巧秀苑(こうしゅうえん)という冊子で、ある広告を見つけてね。たまたま近くにあるという事で行ってみたら、幸いなことに四国担当の営業の方と出会えた。布団屋のころに蓄えたお金150万で嫁さんの着る打掛を5本、まだ仕立ててない丸巻き、それとお色直しの振袖、ドレスの中古品を送ってもらう段取りをして帰ってきた。これで何とかやらないかん思うてから、幡多文化センターの東側で店舗を借りて、やっと開業出来たがよ。」
▼講師を招いて美容師さん向けのブライダルの勉強会を開催。
―白いものは白く、黒いものは黒い
―開店後は順調に業績を伸ばせたんでしょうか。
「美しい花嫁をつくるという事で、美容院にお願いに行ったらね。高知の衣装屋さんは、有名な先生を呼んできちゃあね、中村の美容室を連れて行って勉強会しよるわけよ。そういう義理があるけんね、おぐらへは借りに来てくれんかった。お嫁さんがおぐらへ行こうと思うても、美容院は高知の衣装屋さんに勉強させて貰いよる事情で来てくれん。これじゃいかんと思うて、創業6年目からメーカーに頼んで、京都で有名な先生を呼んで貰うて美容師さんの勉強会を始めたがよ。美容師さんに今度は化粧です。今度はカツラです、次は肌襦袢です。そんな感じで1年に5~6回も来てもらう勉強会を中村で始めてからね、中村の美容師さんもボツボツこちらに向いてくれるようになってね。
その先生が13年来てくれて、店始めて18年の時に農協会館でブライダルショーをやってね。現在、さんさんテレビの取締役になってる甥が企画してくれて、農協会館の4階で昼と夜の2回やりました。さつきの駐車場はいっぱいやけど、さつきの中にお客さんが一人も居らんいうがで話題になって(笑)階段も通路もすべて超満員の中で、それを1日に2回やってそれは大盛況やった。」
―商売に対する原点を教えてください。
「布団屋の面接行ったら社長室に<誠とは変わらざることなり>と書いた色紙があってね。僕はそれまで商売人いうたら人を騙して儲けるもんじゃと思いよった。社長からはお客さんと同じ値段で、布団一式買うて使こうてみよと。自分が使こうて気に入らんものを気に入ったいうて嘘を言うたらいかん。嫌いなものは嫌いとお客さんにハッキリ言えとね。
キレイな中国の刺繍の入った枕があって、実際に使うてみると中身に中国の薬草が入って好かんけに、婦人会の商品説明会で「枕だけは変な匂いがして嫌いじゃ」と正直に言うたわけよ。売る人が嫌いじゃ言うのは、よけいに売れるがね(笑)この40年間、白いものを黒いように言うたりね、丸いものを角いようなこと言わずにね、本当のことを正直に生きていかないかん思うてやってきた。これからもその気持ちは持っていたいと思うね。」
▼一條神社で行われた花嫁衣裳の供養祭。
―真剣に悩まないとアイデアは生まれない
―新聞などでも話題になった、衣装供養祭について聞かせて下さい。
「段々と花嫁衣装が増えてきて、置くところに困ってきてね。大切なドレスを処分するので市役所に電話したら、古着は江ノ村で産業廃棄物として処分してください言われて。建設資材と一緒に綺麗なドレスを捨てるのも忍びないと思うて、そこでまた真剣に悩んだわけよ。
育ててくれた親でも死んだら荼毘(だび)に付すがじゃけん、一條神社の神主さんに相談に行ったら、人形供養でもあるけん出来ますと。それで花嫁衣裳の感謝供養祭を初めてやった。それが高知新聞やテレビでも流されて、新聞に出た記事をブライダルの雑誌の編集部に送ったら、小さい記事で出たがよ。それを見た京都の製造メーカーがつったまげてね。僕がやった翌年に製造メーカーも婚礼衣装の感謝供養祭をやったが。」
―儀式人としての心得とは
―小椋さんにとっての結婚式の意義を聞かせて下さい。
「敬老会の時期になったら、古いドレスや着物を売ってくれじゃあ来るけんどね。貸してはあげるけど、僕は一切売らんし、分けんときた。日曜市で留袖と振袖を5千円で売りようお店もあった。カラオケのステージでドレスを着て歌いよるがをね、ひょっとして娘さんが結婚式で着た衣装を親が見たり、本人が見たりしたら、結婚式で着たドレスやと思われたら、それは忍びないろ。
僕は儀式人として、この仕事に携わってきたつもりながよ。結婚式とは日本の文化を絶やす事なく継承していくという気持ちになってきたが。ただ似合います、綺麗ですよ。それだけじゃなくて、人間には3つの儀式があると思う。生まれたとき、結婚した時、それから亡くなったとき。生まれたときにどんなに盛大にしてもね、本人は知らん。亡くなった時に、どれほど盛大な葬式しても本人は分からん。結婚式だけはね、生まれも育ちも違う人が出会って結ばれて、周りの人から祝福されていくというね。
結婚式に携われることは稀なことじゃし、日本人の民族的な文化を継承する仕事じゃみたいな思いでやってきた。今晩もロイヤルホテルで結婚式があって衣装を出して、その日のうちに店まで連れて取って帰る。飲み会があるけん、明日の朝行こうかという事は基本的にせん。店に取って帰ったら箱から出してハンガーに吊るして置く、配達する時には箱にちゃんと入れる。おぐらの仕事は、やっぱり衣裳が稼いでくれようがやけん。その衣裳をモノとして考えたら、明日になってもかまんけど、そういう思いの延長で衣装の供養祭をすることにもつながってきたがね。」
―平和でこそウェディング、平和でこそブライダル
―本業と平行して活動してこられた地域活動について聞かせて下さい。
「家内と一緒になってから、今度は日当たりがえい場所に引っ越したいという事で、井沢の団地へ家を買うてね。区長がおらんけん、やってくれんかいう話が来て、今度は民生員をやっていうことで。そんな流れで、児童養護施設の理事長も話が舞い込んできた。ただ、一人が名誉欲で走るがじゃなくて皆で荷を分かちあおうという事で引き受けた。民生員の時は、自分の担当の地域の所帯を回るし、市の会長になったら80人くらいおる委員さんのとこをずっと訪問した。県の会長になった時は、高知県全ての市町村を民生員の会長さんと3ヶ月かけて回ったね。
こないだ、日本の母親大会から広告協賛の話があって、高知で全国大会があったがですよ。僕が出した広告は「平和でこそウェディング、平和でこそブライダル」愛する人、愛おしい人をね、再び戦場に送って殺されない世の中にならんようにというメッセージを送ったがです。憲法9条を守る、平和な社会じゃないとね、お互い困るし。暮らしや福祉、そんなことをこれからも大事にしていきたいと思ってます。」
花嫁衣裳 おぐら
高知県四万十市中村一条通3丁目
since1978~close2018 (40th Anniversary)
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※この記事は2018年10月発刊の「はたも~らVol.51」にも掲載されました。是非ご覧ください。